ナムギル漢陽都城エッセイ5

旅行の行路で表現すれば、今回の漢陽都城のスンソンの旅はどこまで来たのか。


漢陽都城のその多くの印象や風景を
すべて入れようとするには、明らかに、
全宇宙の銀河が必要そうだ。
恵化門で興仁之門、再びグァンフイムン、南噂からそ​​して崇礼門まで。
今終わりかと思えば、メビウスの帯のように続くスンソンが出した道。
再びくねくね超えソウイムン、敦義門。
山の奥深くに入っている彰義門から
粛靖門まで、そのすべての道を休まず、
一度に歩けばめまいがしそうだ。

|そんなに道のあちこちに立って
他の道を払っていた四大門とサソムン

一見すると、首都である'漢陽'と
その他の地方を区別するための塀のようなんじゃないか。。
城門があるのは人と物資がきて
行かなければ首都の機能をするから
当然のことと、取るに足らないと
見ることもできる。
スンソン遊びに対する初印象も
それと同じだった。
初めてはただ省の外壁を組んで
歩くことが遊びというのが、
それも何百年以上の時間の間、
流行したという話を聞いて驚いた。
しかし、直接少しずつそのよしみで
漢陽(ハンヤン)都城を区間別に
かけてみたら楽しみがある。
パズルのようにその時その時の
空いた空間を満たしてそのような誇りが
いる。 だから、当代の人たちに
これほどの旅行地はなかった。
漢陽都城こそ、首都案にある
休養地ではないか。
朝鮮時代にはこれだけの
旅行地はなかったようだ。

ひとまずその時は漢陽の内と外を
行き来することが容易ではなかったようだ。 地方から漢陽に来たら
その旅行はスタートから難航した。
道は狭くてぐにゃぐにゃしたし
舗装道路は存在しなかっただろう。
さらに、夏の集中豪雨で川に橋を
めぐってもよく流されて
ぬかるみになったかも。
それだけではない全ての旅客は
膨大な荷物をいくつもまとめて
歩かなければならないだろう。
さらに、馬が食べる豆と覆う毛布も、
保存難しく購入しにくい人荷物と
一緒にもって通ったのだ。

|にもかかわらず、旅行者たちがいた。

公的な業務を行ったり、
親戚や友達に会って、科挙試験を見るために上京したり、島流しに行かなければならなかった、あるいは道の上で生業を立てていた行商人たち…

そのすべての民たちの旅行。
当代は、自分が住んでいた村を離れ、
道を乗り出すことにしたならば、
すべての経費と物資を完璧に準備しても
最も大きな問題が一つ残っていた。
正確な地理情報を探すのが難しい道を探すことに大きな難航があったはずだ。
もちろん、折って、持ち運び可能な折畳式(折帖式)地図があったが、地図自体が貴重であった時代だったから言葉だ。

|その時はどのように道を
訪れたのだろうか?

それでも道端に建てられた
木像に隣の村までの距離が刻まれて
道を探すことに役立ったのだろうか。
あるいは旅客の間に回り限り、
町から他の村までの距離が明示された路程表(路程表)を参照したのだろうか。
木版で印刷されたものもあったが、
いつもあちこちをさ迷って通って道をよく知っている商人などに聞いてメモしておいた筆写本も多かったなんて話だ。
また、ジャオチム(子午針)と呼ぶ
コンパスを持ち歩きながら、
方位を判別するのもしたとはいえ、
道を探すことが本当に難しかったと思う。
しかし、このようなことだけで
正確な距離と方向を入手するのは
容易ではなかった。
最も良い方法はたいてい、そこに
住んでいる人たちに道を問うものだ。
この方法は今も同じで
漢陽(ハンヤン)都城を歩く前に地図で
一通り距離を推測することはできるが、
直接歩いてその道の真ん中で聞いて
歩いて道を見出すまでは
その道を正確に知ることはできない。
[2016/10/13 15:20] | Gil Story | トラックバック(0) | コメント(0) |
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