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ナムギル漢陽都城エッセイ1 続き


分離水門(二間水門)乙支路6街18番清渓川の行き来水門のすぐ南に都城の城郭を
通過する水門である。日本植民地時代京城運動場が入って姿を消して、
今では東大門歴史文化公園内に復元されて残っている。

背が母の膝に触れた小さな時代、母の歩幅に合わせて走るようにかけたその道

漢陽都城の内四山から始まって山の稜線に沿って流れ流れて、また漢陽都城の
分離水門を通じて入ってきた水路どこでも席を取るのは母親たち。
子供達は、そばでバタ足にして、その時から本格的に選択棒を叩いて垢を除いている。
それでは何日も経たない内に肩から腕まで休まずに降りてくる痛み。
それでも休まずペチャクチャと話に花を咲かせて、白い木綿の服を
もっと白くした女性たち。私たちの母。

半日の時間が経って自分の胴体だけあるざるを頭に乗せて、子供はとても
楽しく遊んで両頬が赤く焼けて家に行く道。事実このまま仕事が終わるわけがない。
またアイロンをかけてシワを伸ばし、太陽の下で乾燥し、きちんと畳んで
おかなければならないだろう。そして、とてもお腹が空いて世の中の
すべての食べ物の名前をはしゃいでいる子供そのそばをゆっくり歩きながら
その名前を逐一聞き入れた人。そのすべてのお母さんが子供と一緒に歩いた道。
初めからその道はあまりに身近にあった。


五間水門。東大門から中区乙支路6横行く城壁の下、清渓川6街にあった朝鮮時代の
水門である。1907年、日帝が清渓川に水がよく流れるという名目で五間水門を
すべて壊してしまってコンクリート橋に交換したがのちに、その上の城が毀損され
一緒に消えた。今では同じ場所に五間水橋が復元されてたてられている。


漢陽都城を歩きながらその痕跡に会って私は何故母さんを思い出したのだろうか

ソウルの都心河川、清渓川の橋ごとに残っている洗濯場の痕跡。
漢陽都城が切れたように続く清渓川は、昔のソウルの人たちの遊び場であり
洗濯場だった。白岳山の白雲洞川で始まり、東大門五間水門を通じて
流れ出した私の川が漢陽都城と共に大切にしてきた私たちの話。
その消えた道のどこかで知ることができない優しさが押し寄せてくる。


多分また他のお母さんも疲れたのだ。
座っていてるだけで汗がしたたるある夏の日、赤ん坊末っ子と遊んでくれている
うちに大きな子供がつい眠り込んだ。その間、団扇であおいてくれた母。
そうするうちに彼女自身もいつの間にか仮寝に入る。
その静かであたたかかった度量で、その後いつまでも子供の時間をかばって
抱いてくれた人、お母さん‥





(続く)