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ナムギル漢陽都城エッセイ3


ソウルの昔の地図を見ていると、ここが自然生態都市だったと考えさせる。
あえて木を縫って本来の地形を変形させなくても、山脈に沿って道を出して、
その土地の下に流れる川を遠まわしに村が形成された。
そのそばにある小さい脇道ら。その時はそんな静かな小さな道が当然だった。


もちろん、産業化が、開始する前と今を比較することはできないだろう。
それでも一度私たちが本来持っていた風景を見て回ろう。
都城の城門の中と外に出ている土の道と、城門の周囲に出た市場と藁葺きの家たち、
その村に道を行っていた人たちが通った道を絵を描くように描いてみよう。
旧朝鮮の道を考えてみると、当代にすべての空間は今、踏んでいる土地と木、
河川そのすべてのものを含める、自然さを害さないて話し合う姿の中に位置した。

|昔の地図の中の生態都市、漢陽

何より、その時は漢陽で東西南北のどこに行っても、城壁と城門が健在だった。
首都を守る内四山を補佐する守護神のようにその堂々とした城の石一つ一つが
生き生きした。 そして、間違いなくその傍で、生い茂った緑...
実際に漢陽都城の景観も都城の一部とされたからこれを保存することは、
都の崩れた石を補修することと同様、重要に考えたと。

このように四方が山に囲まれた盆地の地形を利用して建てられた
旧漢陽(ハンヤン)都城の姿を頭の中に描いてみよう。
そして、今みても当代漢陽の姿を鮮明にした昔の地図をよく見ている。

昔の地図は、都城を基準に成り立った。
当時、漢城を行政区域上で、漢城(ハンソン)府とも呼ばれたが、
漢城(ハンソン)他の地域を包括して呼ぶ言葉だった。
すなわち当時の都城中と洛外'ソンジョ十里(城底十里)'までが、
漢城(ハンソン)府の管轄区域だった。
'ソンジョ(城底)'は城の下あるいは城の外を指す言葉で、十里(十里)は城門を基準に、
約10里(4km)のところに該当する地域を指す。

ジャドソンジ三江図(自都城至三江圖)。朝鮮後期の都城から三綱(三江)に達する
ソウルとその周りも(周邊圖)。作者未詳。ソウル大学奎章閣(奎章閣)所蔵。

漢陽(ハンヤン)とその周辺地域を描いた(自都城至三江圖)'を見ると、
当代都城の内と外の姿が一目で見ることができる。
一つの地球儀のように都城を中心に円を巻いたように垣根に落ちた都城と城門
その外に網で連結された河川と山脈が鮮明だ。
地図で一番大きく見える青い水流が、漢江(ハンガン)で、ここで指導左に見える河川は、
沙川、今、一時河川と呼ばれる河川だ。 右河川は中浪川だ。
まさにこの西の一時河川と東の中浪川までがおよそ洛外約10里(4km)以内の地域である。
この区域は言い換えれば、朝鮮版グリーンベルト洛外ソンジョ十里内では墓づくりを禁じて、
伐木を禁止したが、特に国家国防と建築の主要な木材の松の木斬れなくする
コウヤマキ(禁松)制度があったという。

|漢陽は、それ自体が自然だった城郭都市

このように、漢陽の行政区画区分法とその運用基準はいつも自然に置いた。
そんなに漢陽は首都そのものが自然だった城郭都市だった。
しかし、私たちはあまりにも長い間この都市が自然生態都市であり、
城郭都市だったという事実を忘れて生きてきたのではないか。
どうしようもない歳月に削られて消えて今はその本来の跡を判断するのが容易でない今、
昔の漢陽(ハンヤン)都城の姿を今の寸断されて消えた道の上に心の目で、
当時の姿を描いてみている。
そばにはこのような昔の都城の地図を置いて一つ一つ今の風景と重なってみると、
旧道が都城の城壁と城門を通じて、現実になるだろう。


そんなにまだ我々は漢陽都城のあちこちに埋まっている当代の宝石のような話が
発掘されことを待っている。
今は仕方がなく、あちこち切れた城壁のために城郭都市の姿が多く姿を消したものの、
まだその記憶を漢陽都城が守り続けている。
だからこれから漢陽が、城郭都市であったことを、
ソウルここは依然として城郭都市であることを念頭に置き、
本格的に都城とそのそば城門にまつわる裏話を発掘しようとしている。

|その記憶を漢陽都城が守り続けている

しかし、その痕跡を見つけるのにあまり心配する必要はない。
もう少しだけ手を伸ばせばこの話はそんなに古くなった記憶ではない。
都城を基盤とした私たち本来の地理的観点は解放前後までも鮮明だった。

白凡・金九(キム・グ)の'白凡逸志'では
"年老いた体を自動車に頼ってソウルに入ると危惧した山川が嬉しいように私を迎えてくれた。
私の宿舎は塞門の外チェ・チャンハク氏の家です"と書かれている。
ここでいう'塞門の外の家'とは、当時、金鉱を運営して富豪になったチェ・チャンハクの
住宅だった京橋莊'を表現したのだ。
塞門は、敦義門の位置が何回も変更され、新たに建てられたことによって、
'セムン'漢字名で'新門'と呼ばれていたことから由来されたという。
敦義門一帯の新門路という地名も'新門'、'セムン'と呼ばれたその特別な名称から来たものだという。



このように、わずか数日前まで人々に都城は、ソウルの空間を説明する
重要な基準と認識した。
これはキム・グ先生が言及したセムン、つまり敦義門も取り壊され、
その場所だけが残っているが、いつか人たちの口から口へとあるいは
記録と呼ばれたその長い間の名前を呼んでみる。
まるで、普段のように友に約束場所を教えるように今回私たちの、
新しい門の外のどこどこで見てみよう。
そんなにその古い名前をもう触るように歌って漢陽都城が持った敍事の力を再度振り返ってみる。
長い城郭都市であるソウルを長い間首都として存在するようにする漢陽都城
漢陽都城はその城壁と城門に沿って、内四山の稜線に沿って流麗につながる
朝鮮八道すべての話が依然として流れている。
そんなに博物館ガラスの壁の中に剥製された遺物がなく今、依然として生きている
平凡な道として私たちの時間を証言している。
もうみんな一緒に漢陽(ハンヤン)都城の姿を心の中に描いていき、昔の地図をそばに置いて
都の城門である四大門サソムンを一つ一つ開いてみよう。
そうしたら、いつのまにかほこりだらけの昔の地図が単に陳腐な記録物でなく今、現在の
有用な宝の地図という事実を感じるようになるだろう。
過去と現在が共存する空間を探して。
byキム・ナムギル





うっ。。。目がぁ。。疲れたよ〜ナムギルソンセンニム。
いつものように全編、翻訳サイトを使ってるので
変なところあるかもしれずすみません。
でも、あまりに違う内容になったら嫌なので複数のサイトを
組み合わせて、なるべく意味が通じるようにしました。

今回は古地図を携えて歩いているナムギルさんが浮かんでくるような
お話でした。当然、いろいろと勉強したのでしょうね。
同じアジアでも日本には城壁がないですよねぇ。城郭都市みたいなものが。
そのせいか私にとっては新鮮というか物珍しい感じがします。
古の朝鮮はそれだけ、外国からの脅威にさらされていたということなんでしょうか。

古地図と見比べながら歩くって楽しそうですね。
思ったほど変わっていない!という発見があると嬉しいでしょうね。


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