ナムギル漢陽都城エッセイ4

切れて続いてある瞬間消えて再び現れる漢陽都城(ハニャントソン)の道を
歩いていようとするなら、
この道が私たちの人生と本当に多く似ていているという考えをするようになる。
その道を歩いていようとするなら喜怒哀楽の感情が心中に入ってきて
出て行ったことを繰り返す。
そんなに静かに城壁を見ていればそのような妙な気持ちに捕われてしまう。
今歩くこの道はどんな道なのか
名前の分からない誰かが今日も明日もまた、その次にも歩いていった道.
そのような道上に立っていれば時には遠い過去の誰かと
連結でもなっていることだけ同じでかすかだ。
その人、その日一日はどうだったのだろうか?
普段と違わなくて退屈で平凡な日であったか、
でなければどんなことがあって心が煩雑だったか、ある日は綿毛のように軽い足取りで
ありながらもある日は厚くて暗くてじめじめしている
足音を出しただろうしそのような考え.
そんなにその時間を想像してみる。

巡城遊びするように最初で最後につながるそんな話。
その中に依然として残っている多彩な瞬間、記憶。少しだけゆっくり、もっと身近に見ると、
そこに残った記憶の残響が話しかけてくる。
もうちょっとぐずぐずすれば誰かすぐ隣で叫ぶような言葉だ。
|本日は巡城しよう
|いやはや、そのままちょっと出てこいよ
|今日一日は他の仕事とはさておいて、すべて見物しようと
朝鮮八道が色に染まって花煎遊びをしていた時、春飲み寺子屋で師匠を全面に出して
子供たちがぞろりと後を追っかけてきた巡城道。

約束はないような科挙及第の願いを込めた幼い顔の儒者らと
今回の道も無事で来ていくことを念願する、行商人、豊作を祈願する農夫たち..
そのすべての一歩、一歩が続いたが、限りなく、重厚ながらも、
また浮き立った歩みでられた巡城道。
その時はただ城郭が出した道を付いて行っても道を失うことがなかったのだ。
しかし、今は、漢陽都城の寸断された城郭と残った痕跡を探してかけなければならない。
ややもすれば都心の真ん中で城郭道に迷うのが常だ。
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いったん切ります。ナムギル、漢陽都城にご執心ですね。
もちろんファンディングするからにはそうでないといけないけれど。
翻訳サイトの切り貼りですので、ちょっと意味不明なところもあり
それでも、解ったような気になってる自分がとてもマヌケに思える時が
あるんですよね〜:(´◦ω◦`):嫌だな〜。
一ヶ月に約2回の韓国語のレッスン。なかなか難しいですね。
こういうことがスラスラ理解できるのは一体何年先なんでしょう。
字幕なしで映画やドラマを理解できるようになるのは。。。
運よくとても良い先生にお逢いできて、物覚えが悪い私を根気強く
励ましながら教えてくださるのですが、やはりドラマ ミセンにも出てくる台詞の
「努力の質と量」。これが足りないとお話にならないですよね。
あ〜でもまた今日こんなことやって勉強ちらりとしかできてません。
なんとかしないとな。